水橋郷土史料館だより No.25(平成15年12月3日)
郷土史発掘
驚き!“明治の立山橋”発見
小松 外二
この立山橋とは、現在の東西橋の位置で当時の水橋川に架橋されていた全長136間(245m)幅2間5尺(5.1m)橋のニケ所に馬除けを設けた明治2年6月竣工の大橋のことである。
どのような姿であったのか、この橋を描いた富山藩絵師松浦応真斎守美の版画が残されている。縦横39×52cmで、当時どんな人々に配布されたものか分からないが、橋の上方に明治二巳春興として、橋の竣工を喜び祝った句会の作品が収載されている。約30句が載せられ、催主のひとり、照蓮寺住職草露氏の“ゆたかさや橋と柳の水移り”が架橋の喜びを表現している。現存するものは四枚のみで極めて貴重な資料である。この橋の部分だけを複製して、水橋郷土史料館開館の時に配布したり、また、『水橋の歴史』第一集に活用している。
この橋が、風雪や洪水に耐えて何時頃まで存在したものか、記録が残っていないためわからない。しかし、明治天皇北陸御巡幸の明治11年9月には、この橋を渡御されている。当時、全国でも稀に見る長橋の架橋という偉業を、私共の祖先が、どのようにして達成できたのか、厳しい時代の社会背景や、経済事情を勘案するとき、想像を絶する至難の事業であったと思われ、感慨無量なものがある。
この立山橋架橋の経緯については、平成10年12月当館常務理事杉村利一氏が杉木文書などから項目別に纏められ、『水橋の歴史一立山橋乃架橋一』として自費出版されている。580ページにも及ぶ力作であり、一読をお勧めしたい。
さて、標題の立山橋に戻ろう。
最近、平成12年吉川弘文館発行『明治の日本一宮内庁書陵部所蔵写真−』という書物の197ページに石川県越中国新川郡水橋立山橋の図として明治2年架橋された立山橋が載っていることがわかった。時代から考えてこのような写真があるとは考えられなかった。さすが宮内庁ならではということで問い合わせたことや、関連事項など書き記してみたい。
1.立山橋の版画について
署名に応真斎之写とある。江戸後期から明治初期に活躍した松浦応真斎守美である。富山藩の絵所預として絵は山下守胤に学んだという。売薬版画に多くの遺作がある。水橋神社の正面を飾る絵馬『義経海士ケ瀬渡しの図』は嘉永7年に描かれたもので美しい。この版画は浜田健三氏蔵のもので、他の物に比べやや赤色部が多い。水橋には、安政6年、売薬版画、版木商売もあり、何処で刷られたものか不明である。絵は橋の東詰寄合所から西方に向けて描かれ、看板には日本名所大橋と大書している。大きな官立灯籠は、渡しがあったときの名残であろうか。岸の大きな柳が風情を添える、馬除けがニケ所あり、橋上を銃を担った兵卒の一隊が渡る。後に大鰤を担いだ二組の人足が威勢よく走る。川面を笹舟が行き来している。時、惟明治2年6月、夢の懸橋の実現は大きな喜びであると共に文明開化の序幕でもあった。
2.立山橋の写真について
先述のごとく、この写真は『明治の日本』から転写したものである。明治天皇は、明治11年北陸を巡幸され、わが水橋の町で昼食をおとりになった。行在所となったのは、東水橋町8番地の広瀬甚造邸であった。(現在の大町佐々木啓一宅を中心に3軒が該当する)天皇は広瀬宅を出立されてからこの橋を渡御されている。随員の陸路廼記から紹介する。
「三十日曇り 暗み定めなくてをりをり雨ふ連り。魚津を立て延槻川の架橋を渡り、水橋の駅に至る。ここは枕草子に、わたりハ水橋とありて名所なり。常願寺川とて百三十五間の橋かか連る川あり。橋の名をハ立山橋といへり」
かつて佐々木さんの中庭に、明治天皇行在所址と書かれた木柱があったが今はない。この写真は、天皇御巡幸に付き添ってきた写真師が写したものであろう。明治11年9月30日(1869)のことである。
先の版画とは違って、橋の西詰めから東方に向かって写している。画面がばけてはっきりしないため、判別困難だが、遠方の森や樺が見られる。橋の杭が打たれている事から右は川上である。それにしても橋上の夥しい人々は何だろう。拝観の人々か。服装に洋装が見られる。
この本には、富山県関係の写真は53校収録されており、橋では愛本橋が3枚、立山橋1枚、神通川の舟橋3枚、大門橋1枚の計8枚である。立山橋は、当時最長の懸橋として挙げられたものである。因みに神通川の舟橋が木橋に架橋されたのは明治16年1月28日であった。
なお、参考までに、写真は下田の人下岡蓮杖が、米国より写真術を学び、万廷元年(1860)初めて江戸域を撮影し、そのため写真師の祖といわれている。
|