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 水橋郷土史料館だより No.25(平成15年12月3日)

 郷土史発掘

 水橋御蔵の一部移設について
(杉木文書より)

杉村 利一

 加賀前田藩の御蔵は、現水橋町の中部小学校敷地一帯に設けられていたことは多くの方々の御存知のことである。
 明治2年6月に版籍奉還・明治4年7月廃藩置県・明治4年11月新川県の誕生という変遷のなかにあ
って御蔵も暫くはそのままの状態で米蔵として活用されていたものと推察される。
 明治7年(1874)4月に至り、新川県第5大区々長杉木弥八郎及び副区長一同から地域住民の声とともに新川県権令山内秀典宛、圍穀蔵(従前の御蔵)の移設願いが提出されている。
 即ち、滑川町御蔵一棟、水橋町御蔵一棟を五大区小二区・同小三区の中心地域である新堀村及び専光寺村〈現水橋新堀及び水橋専光寺)へ移設し、活用するという内容のものである。(※添付文書一)
 それに対する新川県の回答は「囲穀蔵移転に伴う経費は囲み金より支払う見込であれば、各区々長会議の上、申し立てべく事」となっている。
 次いで、明治7年11月付は、区長杉木弥八郎以下5名による権令山田秀典宛伺書である。(※添付文書二〉
 これに対する権令山田の回答は、経費目論見書(もくろみしょ)の提出を命じている。
 次いで、明治8年10月5日付、新川郡第5大区小2区・小3区各戸長等28名の連署による「囲穀蔵移転の義御願」が提出されている。(※添付文書三)
 次いで明治8年10月20日付、副区長・区長連名による「囲穀蔵移転願」が県令宛に提出され(※添付文書四)その回答は「書面の趣き聞き置き候条、取り滞らずよう轉庫すべき事」と移転の決定がなされている。
 以上簡単に御蔵移転の経緯を説明したが、移転に伴う米収集対象村落は、総て常願寺川以東で、合併前の上条村、下条村、相ノ木村の各村落である。
 この点について考察されることは、関係村々で協議の結果、水橋町所在の御蔵は最終的には石割村へ、滑川町所在の御蔵は上市村又は専光寺村へ移転されたものと判断される。
 ただ、水橋町御蔵は石割村へ移転されたことは文書内容から略々間違いないと判断されるので、この点について少々付言しておきたい。
 水橋郷十史料館所蔵の慶応4年(1868)5月作成「東水橋藩蔵絵図」と本文書を対比してみると「れ・そ・つ印」蔵は、同敷地内の西南に位置する五番筋蔵で天保12丑年(1841)建、御改作所御手合、四間の二拾五間・瓦屋根茸と記載されている。この棟続きの御蔵は手前北側より「れ・そ・つ・ね・な」の各印の蔵に区分され、一番奥(南側)に計蔵(はかりぐら・四間の五間)が五番筋蔵に接続して建てられている。
 総計すると計蔵を含め五番筋蔵は、145坪〈478.5平方メートル)であるが、移転の対象となったのは五番筋蔵の内「れ・そ・つ」の三棟の建坪60坪(198平方メートル)で一般農家の土蔵と比較すれば非常に大きな蔵であったと云うことができる。
 移転後の囲穀蔵は石割村のどの地点に建築され、且つどのよう・に活用されたかは記述がなく、現在これに該当する蔵も存在しないことから、売却或いは取壊されたものと判断される。

(注)水橋御蔵の絵図は水橋郷土史料館に保管されているが、水橋郷土歴史会発行「水橋の歴史」第一集に「水橋御蔵と給人蔵」と表題を付して記述されているので参考にしていただければ有難い。


 添付文書
(※以下、いずれも読み下し文)

一 圍穀蔵移転の儀に付き御伺

昨明治六年(※1873)十月御布達を以って氣運に旺衰あれば豊凶あり、故に豫備は人事の至要なれば毎年の耕作景況に随ひ蓄穀の方法相設け申すべき旨御申し渡の趣説諭に及び候虚、区内一統承服仕り申し候。
就て當区には囲穀蔵従前より水橋には八戸前相い建、囲籾當今九千俵、滑川町には九戸前相い建、囲籾三千俵余り収め入れ御座候えども、即今滑川町の分六戸前空蔵に相来り候につき、以来蓄穀仕るべき旨申し諭し候處、滑川町の儀は区中にては邊隅に相成り囲籾運送不弁利(※便利)の村々少なからず候間、同所空倉の分二戸前當区中央の箇所え移転致し呉れ候えば以後凶歳為め蓄穀致し置き段、区内村々正副戸長一統願い聞き、実際、もっともに相い聞き之候につき、私共合議のうえ、囲穀蔵移転の箇所、別表の通り御伺い申し上げ候間、御辞令なり下さるべく候。
御採用のうえは囲穀金主附方示し合せ早速本文運び方仕り度く此の段連署をもって伺いあげ奉り候以上。
  明治七年(※1874)四月十三日
      副区長 桐沢五郎 同 廣瀬順平
      同  朽木八麿 同 伊藤敬三
      同  伊東祐寛
      区 長 杉木弥八郎
  権令  山田秀典殿

 圍穀蔵移轄の箇所取調べ書上
一 壱戸前  第五大区小三区 新堀村
一 壱戸前    同    専光寺村

右第五大区内蓄穀蔵移転の箇所確決仕り御届け申し上げ候以上。
  明治七年四月十三日 副区長 朽木八麿
                 区 長 杉木弥八郎
  権令 山田秀典殿


書面囲穀蔵移転の経費、囲金の内より支払うべく見込に候はば其郡各区々長合議のうえ申したてべく事。
 明治七年四月 【新川縣印】

二 囲穀蔵移転の義に付き伺

 第五大区、第六大区村々囲穀蔵の義、旧来滑川町、水橋町にこれ有り蓄穀仕り来り候え共、右は区内邊隅にて人民難渋候に付き移転方願出情実黙し難きに付き、第五大区遠隔の村々等は同区新堀村え滑川町に具え候空蔵二蔵移転、第六区は上市村え右空蔵建添え蓄穀仕り下民の欲(※ほしい)に供したく、経費の義は囲金の内より相渡し申し度く協議に御座候、此段伺い奉り候以上。
  明治七年(※1874)十一月
    区長 杉木弥八郎  同 岩城毅一
    同  米澤桝多   同 岩城隆常
    同  伊東祐明
  権令 山田秀典殿

 書面帯の趣き聞き届け候条経費目論見差出すべく事
  明治七年十一月十日


三 圍穀蔵移転の義御願

 第五大区 小式区 小三区
去る明治六年十月御頒布をもって永年の際、豊凶なき能はざれば蓄穀の設(※もうけ)は人民處世の義務にして交誼上関くべからざるの御趣旨、村落一統謹承一昨年来蓄籾仕り居り候囲蔵と申すは旧来これ有り候水橋町、滑川町の両庭貯ひ候えども、右は人戸櫛比(※しっぴ)の箇所なれば火災の患害もこれ有り、且つは邊隅遠隔にして毎年相運び候義に御座候えば冗費も相い嵩み候譯にて相い難き候に付き、私共一統合議の末、小式区小三区の中央なる石割村領之水橋囲穀倉の内「れ・そ・つ」の印壱棟空蔵に相成り候旨移轉築立御聞届なり下され度く、然る上、爾後同心協力して永存貯蓄の法、一層厳重に仕り水旱の難害に供したく義に御座候間、何卒前顯の箇所え囲蔵移転の義御許可成り下され候様、私共村方惣代として連署を以って謹みて願い上げ奉り候以上。
  明治八年十月五日
   第五代区 小三区
    放士ケ瀬新村戸長 石原三郎 印
    新清水村戸長 中田喜右エ門 印
    放士ケ瀬村戸長 田中甚右エ門 印
    清水堂村戸長 中川嘉一 印
    金廣村戸長 澤田平右エ門 印
    中馬場村戸長 林 清書 印
    北馬場村戸長 清水権四郎 印
    平塚村戸長 澤田又平 印
    曲渕村戸長 堀田平一 印
    佐野竹村戸長 土肥宗次郎 印
    田伏村戸長 堀次郎三郎 印
    高寺村戸長 杉木善吾 印
    専光寺村戸長 堀田四郎左エ門 印
    飯坂村戸長 森太郎平 印
    飯坂新村戸長 土肥宗五郎 印
    青出新村戸長 高塚作助 印
    中青出村戸長 中川甚三郎 印
    下青出村戸長 大井平四郎 印
    久金新村戸長 渡辺宗平 印
    久金村副戸長 土肥作右エ門 印
    上条沖村戸長 源田徳右エ門 印
    下砂子坂村副戸長 石田覚左エ門 印
    上砂子坂村戸長 神田平右エ門 印
    下砂子坂新村戸長 高本宗三郎 印
    五郎丸村戸長 松波善六 印
    石割村戸長 若林六辺 印
    竹鼻村戸長 田村忠四郎 印
    小出村戸長 塩原三郎右エ門 印


四 囲穀倉移転願

 第五大区小貮区小参区村々圍穀倉の義、旧来滑川・水橋の両町にこれ有り、蓄穀仕り来り候え共、右は人戸連澹の箇所にして火難の患も心許無く、且つは邊隅にして毎年持ち運び候冗費にも相い成り、一統難渋候に付き、水橋町囲穀空蔵の内、壱棟を両小区中央なる石割村領内え移転方出願の実状止むを得ず罷り出で存じ奉り候間、願いの箇所え更に移転御許可成り下されたく、尤も経費の義は囲金の内より相い渡し申したく存じ奉り候。
此の段副書申上げ仕り候以上。
  明治八年十月二十日
             副区長 連名
             区 長 杉木弥八郎


  権令 山田秀典殿

 
杉村 利一
Riichi Sugimura
(略歴)
現在、常務理事。
 
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